VICTORIA MEDICINA

医療の勝利

医療は経験の積み重ねである。公理を基に論理的に構成をされた体系でないことは多分明らかであろう。どの様な体系が作られるか否かは分からないが、完成形が存在することは到底証明出来そうもない。完成形が出来て論理的な無矛盾の医療体系であったとしても、ゲーデルの証明結果の様な「無矛盾ではあっても完全ではない」体系になるのが落ちであろう。そうだからこそ日常の積み重ねが必要で、人の英知の凝縮が求められる分野である。論理的に完結しないで進んでいく構造だから、くだらないヒエラルキーを作り上げ自らの保身に執着する人も多かろう。医師が看護師よりも威張るなどというのは、幼稚で腐りきった世界なのだろう。単に役割でしかないものを理解出来ない馬鹿達がせいぜい作り上げた伝統なのかも知れない。たとえ苦しくても、そんな人たちに扱われる位ならぶん殴れるぐらいは動ける様な身体を保っておきたい。

と記しても、足腰立たないことはもとより、口もきけず、それでも生きていると認知され、弄くられるのだから、到底適わない。善意の塊で医療者に処置をされ、激痛から少しでも解放されるのだから、せめて自殺する自由は基本的権利であろう。

"カーボンフリー"とは、どうやら二酸化炭素排出を無くそうという事らしい。和製英語なのか分からないが、おかしなことである。確かに人間の二酸化炭素排出は少ない方が良いという局面もあるはずだ。しかし、どの分野も一律そうすべきなのか分かって言っているのだろうか。例えば、発酵にともなう二酸化炭素排出はどうなのか、或いはワインや酒の場合はどうなのかということを考えているのだろうか。しかも決定的なことは、"カーボン"は二酸化炭素ではないということである。"カーボン"とはラテン語から来た"炭素"すなわち元素記号"C"のことである。という事は、生命絶滅を目指していることになる。オマケではあるが、ダイヤモンドも無くすということなのだろう。

SNSに自分の子供の写真を投稿するのを見かける。子供は親の道具なのか? 投稿者は、子供という自分の他者の肖像権やプライバシー権をどう考えているのだろうか。

多くの人は、小さい頃から洗脳されて育っている。親や教師が洗脳の役目を担っている。順調に育っている、余り波風たたせない人達の頂点は、取り敢えず偏差値に彩られた道の先にある。予定調和の物わかりがいい人が同好会を作り、先輩に率いられてこの世の先をこねくり回していく。その同好会に入るには"従順な馬鹿"になることが必要条件の様だ。たまには派閥の下剋上がある様だが、少なくとも表面上の絆を大切にしている。

”緊急時以外は絆など無い方が良い”と呟くと、あの同好会からは後ろ指を指される。